24時間運航のフェリー、桜島が噴火警戒レベル5

桜島の噴火

数年前、鹿児島中央駅を降りたところ外はパラパラの雨でした。傘を出さずに5分ほど歩いて喫茶店に寄りました。すると、半袖のシャツや腕に黒いポツポツが湧いています。灰混じりの雨だったのです。晴れていれば噴煙が見えますが、雨では桜島そのものも見えません。

24日20時過ぎの桜島の噴火で、気象庁は20時50分に噴火警戒レベルをMAXの「5」に引き上げました。この制度ができたのは2007年で、レベル「5」は2015年の口永良部島以来2回目です。レベル「5」と言っても、島内の一部集落で避難を要するという話のようです。

桜島と錦江湾
桜島と錦江湾(地理院タイルを加工)

鹿児島中央駅付近は南岳からは10キロ以上離れています。姶良(あいら)市や霧島市や垂水(たるみず)市でも風向き次第で降灰を浴びるでしょうが、この地域では日常の光景です。海を越えて噴石による被害が生じるような大規模噴火の懸念があるわけではないはずです。

南岳(地理院タイルを加工)

当面、影響があるのは桜島の南部だけです。桜島には北岳、中岳、南岳があり、今回噴火したのは南岳です。地図の国道マーク(224号)の右側が大正噴火で大隅半島とつながったところです。溶岩は主に南東側に流れました。この方向に集落はありません。

1946年の昭和噴火では、一部の溶岩が権現山と鍋山の間を抜けて埋没鳥居で有名な黒神地区に達しています(埋没したのは1914年の大正噴火)。火口が移動しない限り、影響は限定的と思われます。

24時間運航の桜島フェリー

桜島フェリーは24時間運航です。深夜帯でも桜島港を毎時00分、鹿児島港を毎時30分に出港します。そこまでの需要があるのかどうかはいささか怪しいところですが、24時間運航を継続しているのは緊急時への備えという側面があります。

集落ごとにフェリーが接岸できる港を備えています。このフェリーはいざというときには避難船に早変わりする仕掛けです。深夜運航していれば、いつでも1隻は確保できるわけです。

1889年西桜島村東桜島村
1950年鹿児島市
1973年桜島町
2004年鹿児島市
東西の桜島村

かつては、西桜島村と東桜島村でしたが、東桜島村は1950年に鹿児島市と飛び地合併しています。東桜島村の村役場があったのが今回の避難対象になっている有村地区です。村役場は大正噴火で埋没し、戸籍などの書類も消失しています。

西桜島村は1973年に町制施行し、2004年に鹿児島市と合併しました。西桜島村の村役場は今のフェリー乗り場付近の横山地区にありましたが、やはり大正噴火で埋没しており、北東側の藤野地区に移転しています。大正噴火クラスなら全島避難になるわけです。

科学不信の碑

東桜島小学校の敷地内に、いわゆる「科学不信の碑」があります。風化した旧仮名の石碑ですので、鹿児島市は日英2か国語で案内板を設けています。

 理論を頼みとするな――と記された碑文が、大正3年1月12日の被害の悲惨さを物語っています。
 史上最大の大噴火の前兆は数日前から認められました。地震の頻発、火山斜面の崩壊、海岸では熱湯が沸き出していたのです。ところが頼みとした測候所は大噴火無しと判断、村当局は避難命令を出せぬまま、その日を迎えました。突然あたりは猛火に包まれ、噴石が雨のように落下、火山灰で真っ暗になったといいます。当時の東桜島村の川上村長、山下収入役、野添書記の3名が退避しようと海岸にかけおりた時には、もう船は一隻もなく、泳いで逃れるしか術はなかったのです。通りすがりの漁船が漂流する3人を発見しましたが、すでに山下収入役は力尽きて絶命、同じように瀬戸海峡を泳いで避難しようとした大山書記も行方不明となりました。

「住民ハ理論ニ信頼セズ」

「住民ハ理論ニ信頼セズ」のタイトルは日英中韓の4か国語です。これを意識して早めに避難指示を出したというわけではなく、避難対象地域があるからレベル5になったというだけのことだと思われます。

合併で鹿児島市の市域に入っているのですから、鹿児島市全域でアラートが鳴ってしまうのは仕方のないことなのでしょう。

【2022/07/28追記】27日午後8時に警戒レベル「3」の入山規制に戻りました。避難指示が出たうえに、夜の噴火で様子がわかりにくいこともあり、当初はかなり大げさに伝えられましたが、桜島では日常の範囲内の噴火だったようです。

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