奈良市「生琉里町」と伊賀市「生琉里」(ふるさと)

「生」はワイルドカード?

奈良市に「生琉里町」、お隣の三重県伊賀市には「生琉里」という字があります。どちらも「ふるさと(ちょう)」と読みます。直線距離で25キロほどです。4府県の境界が入り組んだややこしい地域ですが、両者は無関係ではなく兄弟姉妹です。

奈良市生琉里町と伊賀市生琉里
生琉里町と生琉里(地理院タイルを加工)

「生」は「ふ」と読めないわけではありません。日本人の9割以上は「芝生」を読めるはずです。「壬生」、「羽生」、「土生」の「生」は濁音化して「ぶ」です。言われてみれば納得できないわけでもありませんが、「生」は100通りの読み方があると言われるほどにやっかいこのうえない漢字です。

たとえば栗生小学校は全国に3校あり、読みが違うのです。「水曜どうでしょう」の釣りバカグランドチャンピオン大会は屋久島が舞台でした。

(宮城)仙台市立「くり」小学校
(広島)府中市立「くり」小学校
(鹿児島)屋久島町立「くり」小学校
▲栗生小学校

現存する基礎自治体でも群馬県「桐生」市、兵庫県「相生」市、東京都「福生」市、埼玉県「越生」町、奈良県「生駒」市と、それぞれに読みが異なります。ネイティブの日本人にとっても「生」は一種のワイルドカードです。読めなくても不思議ではありません。

中国・黒龍江省ハルピン市道外区天理屯

奈良市生琉里町と伊賀市生琉里の兄弟姉妹は、中国・黒龍江省ハルピン市道外区天理屯を親としています。

1904-05年の日露戦争は当時の清国北東部の権益をめぐる対立が武力衝突に発展したものです。アメリカが仲裁したポーツマス条約により、日本は千島列島と南樺太の領土だけでなくロシアが敷設した南満州鉄道を手に入れます。

中国大陸では1912年に中華民国の南京政府が樹立され清朝は滅亡します。帝政ロシアは第1次世界大戦中の1917年に革命によって崩壊します。ブラックチューズデーが1929年、満州事変は1931年、満州国の建国は1932年です。同年から満蒙開拓の移民が始まります。

天理教は教団として移民を募り、1934年5月に満州天理村の地鎮祭が行われています。第1次の移民団は43家族(そのうち東北・北海道出身が27家族)204人だったそうです。1937年には天理村とハルピンを結ぶ天理鉄道が開業しています。満蒙開拓としては模範的な成功例だったようです。

満州天理村

「生琉里」と名付けられた満州天理村は稚内より高緯度ですので、おそらく極寒の地と思われます。天理村は教会を中心にしてその周囲に事務所と学校と診療所を、外周には住戸を配置して、鉄条網や堀で囲んだ矩形のミニ城壁村だったということです。今でも当時の面影はあるようで、黄枠が元の天理村です。

今の天理屯

敗戦後、27万人の開拓移民のうち運のいい者は引揚船で帰国します。8万人が亡くなったとされていますので、生還率は7割です。天理村の開拓移民は比較的早めに帰国しているようです。もともと家屋敷は処分して満州に渡ったのでしょうから、頼る親族のない家族も少なくなかったはずです。

ふるさと

強制的な移民ではなかったにせよ、満蒙移民100万人計画は国策でした。国策に従った結果、家も職場である農地も失ったのですから、いくら敗戦国といえどもそれなりの手当はあってしかるべきです。そのために用意されたのが奈良市生琉里町や伊賀市生琉里ということのようです。

「東里村平清水」(奈良県には同名の東里村が2つあって、もう一方の東里村は室生村を経て現・宇陀市)は、1949年に「東里村生琉里」、1957年の奈良市編入で「奈良市生琉里町」になったようです。天理教生琉里分教会があります。

奈良市生琉里町
奈良市生琉里町(地理院タイルを加工)

伊賀市生琉里は、もともと「上野市下友生(しもとも)」の海軍上野飛行場跡です。1977年に「上野市生琉里」になり、2004年の合併で「伊賀市生琉里」になりました。天理教伊賀生琉里分教会があります。

伊賀市生琉里
伊賀市生琉里(地理院タイルを加工)

満州の生琉里は、ここを自分たちの故郷にしようという自らの熱い想いで名付けられたに違いありません。奈良市(東里村)や伊賀市(上野市)の生琉里への字変更が、開拓民主導なのか行政主導だったのかは定かではありません。行政主導だとしてもそれを受け入れたわけです。

満州天理村からの引揚者は三重県美杉村八知(現・津市美杉町八知=やち)にも入植したようです。入植者が少なかったのか、もう1つの生琉里は字名変更に至っていません。天理教八十八分教会は津市美杉町石名原の所在で八知とは少し距離があります。

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