大阪第一飛行場は大阪湾岸の木津川飛行場

八尾空港=阪神飛行場

伊丹空港(紫)は1939年に開設されています。その際の名称は「大阪第二飛行場」です。第二と名付けられた以上、「第一」に相当する施設があるはずです。てっきり八尾空港(青)なのだろうと当たりをつけていましたが、そうではありませんでした。

木津川飛行場
木津川飛行場(地理院タイル

Wikipediaの「八尾空港」には次の記述があります。

・1933年(昭和8年) – 中河内郡大正村大字南木本・太田の農地埋め立てにより東西700m、南北300mの芝生張滑走路が設けられ、阪神飛行学校が設立、民間機パイロットの養成訓練開始。
・なお開校年については、八尾市立図書館ウェブサイト(外部リンク節を参照)や『日本民間航空史話』(日本航空協会)では1938年(昭和13年)、陸上自衛隊八尾駐屯地ウェブサイトでは1934年(昭和9年)と、それぞれ記述している。

Wikipedia「八尾空港」(2020/09/13閲覧)

の年と開の年が異なっていても差し支えないわけですが、いずれにしても伊丹より先に八尾空港は存在していたわけです。八尾空港は「阪神飛行場」の名称だったようです。

淀川水系に木津川は2つ

「第一」飛行場は木津川河口にあった木津川飛行場のようです。ややこしい話ですが、木津川は淀川の支流の1つであり、淀川から分流した川(運河)の1つにも木津川があります。

木津川
木津川(地理院タイル

三重県の青山高原(赤)を源流とする木津川は、柘植川や名張川など支流(ピンクは支流の源流)を集めて京都府内に入ります。分水嶺は県境と一致せず、伊賀市や名張市に降った雨は最終的に大阪湾に注ぐわけです。

木津川は、京都・大阪の府境付近で琵琶湖から流れる宇治川(滋賀県では瀬田川)、嵐山を通る桂川と合流して淀川になります。淀川は大阪市北部の淀川大堰で市内中心部の大阪城に向けて大川(ピンクの線)に分流します。

その大川は中之島で堂島川と土佐堀川に分流し、土佐堀川から京セラドーム方面に分流する運河に対して再び木津川の名称が使われています。つまり、淀川水系に木津川は2つあります。

京都には上流の木津川に由来する木津川市があり、大阪市内には運河の木津川に由来する南海高野線木津川駅があります。ついでに言えば、京都には日本海に注ぐ木津川もあります。

伊丹開港で木津川飛行場は閉鎖

木津川飛行場は伊丹の開港によって閉鎖されています。その跡地は今では中山製鋼の工場です。

2018年10月撮影のストビューを埋め込みました。画像中央のガードレールの上に小さく見えるのが木津川飛行場跡の標柱です。この標柱は三重ループ橋の新木津川大橋北詰に建てられています(ピンクの矢印)。

木津川飛行場跡の標柱

国土地理院の空中写真は戦前のものがなく、この付近の最古は1948年でした。三重ループの西側に飛行場があったようです。標柱脇の案内板には次のように記されています。

わが国の近代航空技術は大正7年(1918)ごろから急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正11年からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年ごろからです。昭和2年(1927)に着工し、昭和4年には未完成のまま、東京・大阪・福岡間に1日1往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であったため、昭和9年の八尾空港、昭和14年の伊丹空港完成により、その役割を終え、昭和14年には閉鎖されました。

標柱脇の案内板「木津川飛行場」

木津川河口が水上飛行機の発着場であったことから、右岸の埋立地に飛行場がつくられたということのようです。

なお、八尾空港に関して昭和9年=1934年「完成」と記載されていますが、木津川飛行場と同様に竣工前でも供用は始まっていたとも考えられますので、八尾空港=阪神飛行場の1933年開港説がただちに否定されるわけではありません。

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