久慈川に架かる矢祭町の高地原橋が復旧

合併しない宣言の町

栃木県境付近の棚倉町(たならまち)を源流とする久慈川は、時計回りに中豊駅付近で南流して茨城県に入り、おおむねJR水郡線に沿いながら最終的には日立市と東海村の境で太平洋に注ぎます。

久慈川
久慈川(地理院タイルを加工)

青マーカーの矢祭山(やまつりやま)は山頂の一等三角点が標高382.6mです。矢祭町の町名が矢祭山に由来することは疑いようもありません。矢祭町山頂は町境(県境)ではなく、矢祭川が流れる西麓も矢祭町の町域です。対して矢祭町の東端は阿武隈山地でになります。

「合併しない宣言」、収入役の廃止、町議会議員給与の日当制などで有名な矢祭町は福島県南端の位置にあります。地形的に茨城との関係が深いようです。Google Mapでルート検索してみました。

1時間55分矢祭町役場-福島県庁
1時間36分矢祭町役場-茨城県庁
電車1時間32分東舘駅-郡山駅
電車1時間38分東舘駅-水戸駅
▲矢祭町からの所要時間

県内の郡山、いわきと茨城の水戸、ひたちなかがほとんどイーブンです。

台風で流出した高地原橋

2019年台風19号は全国で10万戸以上の住戸被害をもたらし、阿武隈川や千曲川の氾濫などで死者・行方不明者は100人を超えました。21世紀の台風としては最悪の人的被害でした。矢祭町では高地原橋(たかちはらはし)が流出しています。

2014年5月撮影のストビューです。この橋の向こうの11世帯30人が孤立しました。右側の欄干の外には水道管が見えます。橋の流出は断水をも意味します。

流出前の高地原橋

水郡線は全線が単線です。久慈川にほぼ垂直に架かる鉄橋は無事でしたので、住民らが徒歩で生活物資を運ぶ臨時の代替橋として機能しました。

工事中の高地原橋

2020年3月の衛星写真です。新たに架けられた橋は仮橋です。2021年11月、元の場所に1.5mかさ上げした新高地原橋が完成しています。

小さき丘あり。かたち、くじらに似たり。

2019/10/13 久慈川の増水で橋が流出、集落が孤立
2019/11/03 仮仮橋が完成
2020/01/29 仮仮橋が流出し、集落は再孤立
2020/01/31 仮橋の徒歩通行が可能に
2020/02/02 仮橋が完成
2021/11/27 本復旧(新高地原橋)

冒頭の地理院地図の赤マーカーはアメダス観測所です。久慈川上流の東白川では、2019年10月12日に観測史上2位となる200ミリの雨量を観測しています。2度目の流出時の東白川は1/28が6.5ミリ、1/29が44.5ミリでした。

「常陸国風土記」では、丘の形が鯨に似ているから「久慈」と名付けられたということです。久慈川下流の茨城県大子町は久慈郡です。今の久慈郡は大子町のみですが、かつての久慈郡は常陸太田市の全域と日立市、常陸大宮市の一部を含んでいました。

旧久慈郡のどこに「鯨ヶ丘」があるのか探してみたくなります。一般的に思い浮かべるイメージとしての鯨は次のイラストのような形で、かなりデフォルメされています。潮吹き中で尾びれを天に上げる形が多いようですが、それはイラストの世界です。

クジラ

クジラの骨は縄文時代の遺跡からも見つかっていますが、日本で組織的な捕鯨が始まったのは江戸時代以降です。古風土記が編まれた奈良時代には本格的な捕鯨術はなかったと考えたほうが自然です。浅瀬に迷い込んで座礁した鯨を人海戦術で捕らえるということはあったはずです。

そうすると、「久慈」の名付け親は単になだらかな稜線を見てクジラに似ていると感じただけなのでしょう。というわけで、あまり有益な探索にはなりそうにありません。ストビューを開くことなく断念しました。

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