高倉健主演の映画「網走番外地」
国後島、奥尻島、利尻島、焼尻島、それに歯舞諸島の萌茂尻島(もえもしり-とう)と、北海道の島は「~シリ」で 終わる割合が高いという特徴があります。ただ、アイヌ語の「シリ」は必ずしも「島」を意味するわけではなく 「山」「陸地」「土地」などを表す概念のようです。
川の中州というわけでもありませんので、網走にはまったく「島」感がありません。網走市Webサイトには由来について次のような記述があります。
「網走」という地名は「ア・パ・シリ」(我らが見つけた土地)から出たとも、 「アパ・シリ」(入り口の地)あるいは「チバ・シリ」(幣場のある島)などの 諸説があって定まりませんが、いずれにしろ「アパシリ」というアイヌ語を漢字に あてたものとされています。
網走市>市名の由来と紋章
さて、網走と言えば網走刑務所(網走監獄)です。網走刑務所が有名になったのは、1965年から公開された東映の映画「網走番外地」シリーズ」によるものです。1965年に公開された第2~4作は邦画の興行収入2、4、6位を、翌1966年の第5~7作は1、3、9位を占めています。
私はリアタイ世代ではありませんが、2人手錠でつながれたまま脱走した囚人役の高倉健が線路に横たわり、走行する汽車の車輪で手錠を切るシーンは知っています。
なお、1969年連載開始の永井豪「あばしり一家」は、網走を舞台にしたものではなく「悪馬尻駄ェ門(あばしり・だえもん)」一家によるカオスな漫画です。
囚人道路
西南戦争や秩父事件など内乱の影響で囚人が増えて収容所不足に陥ったため、開拓を進めたい北海道に明治政府が次々と収容施設をつくったということのようです。 懲役刑12年以上の囚人を対象とする「集治監」は次の順序でつくられています。
1879 | 明治12 | 東京集治監 | 小菅 |
1879 | 明治12 | 宮城集治監 | 仙台 |
1881 | 明治14 | 樺戸集治監 | 月形 |
1882 | 明治15 | 空知集治監 | 三笠 |
1883 | 明治16 | 福岡集治監 | 三池 |
1885 | 明治18 | 釧路集治監 | 標茶 |
1890 | 明治23 | 網走分監 | 網走 |
網走刑務所は明治23年に「釧路監獄署網走囚徒外役所」として開設されています。村人よりはるかに多い1200人が送り込まれた網走刑務所の囚人によって開削されたのが北見道路(いわゆる囚人道路の一部)です。
Wiki「囚人道路」によれば、網走から緋牛内(ひうしない)まで今の道道104号、緋牛内~留辺蘂間が今の国道39号、留辺蘂~佐呂間間が道道103号、佐呂間~北見峠が国道333号ということですので、線を引いてみました。
網走刑務所と博物館網走監獄
現・網走刑務所は1984年に暖房設備付きの鉄筋コンクリート造で建て替え竣工しています。
木造の網走刑務所を移設・復原した「博物館網走監獄」は1983年の開館です。
いわゆる観光案内的な複数のサイトには刑務所は別の場所に移転したと記載されていますが、刑務所は同一敷地内で建て替えられており、博物館は古い建物を移築したものです。
獄舎は放射状に配置され、中央が監視所になります。アルファベットの「K」の中心部から右への横線が加わる形です。天窓に使われた鉄線入りガラスは厚さ7ミリだそうです。
脱獄4回、日本の脱獄王
どうやらこの網走刑務所から脱獄した猛者がいたようで、博物館では彼が脱獄した第4舎24房を見学することもできるそうです。
1936年 | 28歳 | 青森 | 合鍵で脱出 |
1942年 | 34歳 | 秋田 | 天窓の鉄格子を外して脱走 |
1944年 | 37歳 | 網走 | 手錠と視察口の鉄格子を外し天窓を破る |
1947年 | 39歳 | 札幌 | 床板を外しトンネルを掘って逃走 |
1961年 | 仮釈放 |
彼にとって網走は3回目の脱獄でした。手錠や格子枠など鉄製品が粗悪品だったことや戦時中の人員不足が看守にも及んだという時代的背景もあるようです。同時に、彼は肩の関節を外して自分で元に戻せるという「特技」と手錠の鎖を引きちぎる怪力の持ち主でもあったそうです。
網走では独房の中でも手錠・足錠を強いられていたようです。彼にとってはこれらを外すのは朝飯前ですが、課題は独房から抜け出すことでした。第4舎24房の視察口(覗き窓)は約20センチ✕40センチのサイズだそうです。格子を取り除いても脱出できません。
彼はこの鉄格子枠を固定しているボルトに数か月に渡って味噌汁をかけ続けたそうです。塩分で腐食し緩んだボルトの鉄格子を枠ごと外して、肩を脱臼させて廊下に出ます。
採光のために廊下の天井に設置された厚さ7ミリの天窓のガラスは頭突きで突破し、煙突を支えていた梯子を取り外して塀に立てかけて逃走に成功したということです。
1944年8月26日午後9時台だったようです。本格的な捜索は翌朝からです。当日の月齢は7.3ですから半月(上弦の月)になります。網走地方気象台による日最低気温は19.7℃ですので、フンドシ一丁でもなんとかやり過ごせます。終戦を挟んで2年間の逃走生活を続けたようです。
よくわからないのが4回目のトンネルを掘っての脱獄です。掘った土はどう処分したのでしょうか? おそらくトイレでしょうが、時代からして当然に汲取式のはずです。仮に直径40センチの穴を10m掘れば、0.2✕0.2✕3.14✕10=約1.25立米になります。さすがにバレるのでは?
【外部リンク】
■Wikipedia>白鳥由栄
■文春オンライン>「生きてる人間にも蛆が湧くことをはじめて知ったね」脱獄のプロも死を覚悟……網走刑務所で受けた“むごい仕打ち”
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