西川勝こと崔奉春(崔翔翊、崔翔翼)氏の密航

白鳥ビル

新宿御苑前の白鳥ビルです。不動産賃貸情報によれば、1963年1月築のRC7階建てで、50坪の7階部分の賃料は70万円前後のようです。

新宿御苑前の白鳥ビル

光言社サイトに次のような記述があります。1964年と言えば、素直に開催された東京オリンピックの年です。日韓基本条約が締結されるのは翌1965年6月ですので、まだ韓国との正式な国交はありません。

1964年2月の末に、新宿区新宿1の86、白鳥ビルの七階を借りて原理講義所として使用し、小河原節子さんが講義を担当しました。

光言社>日本統一運動史 53 中央大学の白門祭で講演と原理展示会開催

高額献金などの問題がなかった時代だと思われます。小河原節子氏とは旧・統一教会(統一協会)の第5代会長・櫻井設雄氏の夫人です。設雄氏は2011年に亡くなり、節子氏は2017年に退会届を出し、教団職員だった長男の正上氏も離教しています。正上氏は先日の会見について次のように述べています。

もっと踏み込んで言うなら、田中会長も、勅使河原さんも、元は献金体制を“改革”したい側の人たちでした。変えられなかったのは、もっと大きな“背後の力”によるものです。

そうした背景を知る立場から見る時、前任者の誰もが責任を取ろうとせず、謝罪する姿勢すら示さずに来た中、改革しようとしてきた人たちが矢面に立たされている現状に、複雑な思いも抱かされました。一個人として、であれば、むしろ心から謝罪したい方々であっただろうと思うからです。

櫻井正上のブログ>統一教会の記者会見を視聴して ~真摯な謝罪か?組織防衛か? 2023年11月9日

西川勝氏の渡日

白鳥ビルに原理講義所を置いたのが1964年2月、教団が日本で宗教法人認証されるのは同年7月です。日本における旧・統一教会(統一協会)の歴史は、西川勝こと崔奉春(崔翔翊、崔翔翼=チェ・ボンチュン)氏が宣教師として派遣されたことから始まります。

西川氏は日本に派遣された最初の宣教師というわけではないようですが、歴史が紡がれたのは西川氏からです。西川氏は1925年に釜山で生まれています。文鮮明氏の5歳年下です。2歳から大学進学まで大阪・難波で過ごし、1945年の終戦直前に朝鮮半島に帰ります。

仁川の製氷会社の常務だった1956年4月10日に入信しているようです。入教から2年後の1958年5月27日、釜山教会の2階で文鮮明氏に日本伝道の意向を伝えたそうです。これが純粋に自発的なものだったかどうかは語られていません。

文鮮明氏はソウル教会・劉孝元氏宛の手紙を西川氏に託します。文氏と西川氏は同じ汽車に乗り込み、文氏は大邸で降り、手紙を持った西川氏はソウルに向かいます。劉氏の返信を携えた西川氏は29日夜に大田の甲寺で文氏と落ち合います。

大田の甲寺

GOサインということになったようです。日韓間に国交はありませんので、正規の渡航ではありません。西川氏が手配した金錫根船長の準備は整っておらず、出港は7月にずれ込みます。

この間、ソウルからは「中止せよ」との電報が届いていたそうですが、使命感に燃えた西川氏を止めることはできなかったようです。

堂々と入港を企む密航船

小倉港入港は7月17日午後9時だそうです。女性や子供も乗り込んでいた「密航船」は当然のように上陸を認められず、船は広島に向かうことになります。7月21日、呉海上保安本部の警備艇に連行され、身柄を拘束されて海上保安部の留置所に拘置されます。

私の中での「密航」のイメージは、貿易船に紛れ込むか、人気(ひとけ)のない日本海側でボートを降ろしてもらうパターンですが、ずいぶん堂々とした「密航」です。とても特例的に入国が許可されるとは思えません。

7月25日に送検された西川氏は「権順南」を名乗ったようですが、指紋照会で身元が割れた西川氏や船長ら5人が起訴され、西川氏には10月9日に懲役6か月の実刑判決が下されます。広島刑務所と山口刑務所で1959年2月19日に刑期を満たし、送還のために下関に送られます。

仮病を装い断食することで当面の送還を回避して、療養所留置になるのが3月16日です。療養所は「光風園」だったそうです。4月10日の皇太子成婚(金曜日の大安)の日に脱走したかったようですが、送金が遅れて実際に療養所を抜け出したのは4月18日か25日の土曜日だったということです。

下関
下関(地理院タイルを加工)

刑期は終えています。外出許可を得て街に出ただけのことですので、刑務所から脱走するようなスリリングなものではありません。買い物をして厚狭駅から東京行きの夜行急行に乗ったそうです。

どこに送金を依頼したのかは明かされていませんが、「百ドルを日本の金に換えたのであろう、三万弱であった」との記述があります。

姜淳愛宣教師は漁船で密航

同年10月2日午後7時15分、高田馬場「雄鶏舎」で日本最初の礼拝が行われており、この日が日本教会設立の日とされています。参加者は西川氏を含めて4人ということです。櫻井節子氏は大学2年生だった翌1960年9月松本ママの伝道によって入教しています。

1960年6月、姜淳愛(カン・スネ)宣教師が派遣されています。姜氏は53名乗り込んだ漁船でどこかの島に上陸したそうです。姜氏の日本滞在は1年に満たなかったようです。

西川氏は1961年5月15日の合同結婚式で申美植氏と「36双」祝福を受けています。追われる身の西川氏は帰国することができず、夫人のみがソウルで出席したようです。ということは、当然に既成祝福だったわけです。

姜氏が提供した4畳半のアパートで時刻を合わせて臨んだ合同結婚式には櫻井節子氏も同席していたということです。夫人の申美植氏が来日したのは1964年です。

西川氏と庭野日敬・立正佼成会会長が会談を持ったのは1962年9月7日だそうです。久保木修己氏の入教はその前月8月のことです。仁義を切ったということなのでしょう。久保木氏を初代会長として日本で宗教法人認証されるのは1964年7月です。

西川氏は同年末には日本を離れ、翌1965年からはアメリカに移住しています。1985年には離教しており、献金第一主義には否定的だったようです。人望も厚かったという西川氏がなぜこの時期に日本から「追放」されたのか、文鮮明氏の嫉妬という見方もあるようですが、それでは納得できないと私は思っています。

なお、「西川勝」が「西側が勝つ」だと言うのは、たぶん(教団得意の)後付けだろうと思われます。西川氏自身がそれを語っているという情報は見つかりませんでした。西川氏は今年2月に亡くなっています。

西川氏は「宗教では、教祖や教会の指導者達が、自分のことを神や啓示の名を借りて、絶対化してしまう」「一番、この世の独善性と排他性が強いのは、宗教であります」と語っています(外部リンク4)。同意できます。

離教者には冷たい教団ですが、さすがに西川氏だけは別格のようで、2016年には尾瀬霊園に西川氏を顕彰した「日本開拓の碑」が建立されています。

【外部リンク】
(1)■光言社>日本統一運動史18 真の御父様の机上の金閣寺
(2)■光言社>日本統一運動史23 姜淳愛宣教師の来日
(3)■天一国の軽戦室>先駆者たちの証言_02 – 日本伝道日記
(4)■六マリアの悲劇・真のサタンは、文鮮明だ!!>統一教会問題と私、及びその未来 – 西川 勝氏

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