聖地・下関にある崑崙丸慰霊碑と文鮮明氏の富士登山

日臨節

日本教団の最高責任者である方相逸(パン・サンイル)神日本大陸会長は、2021年3月28日に下関市生涯学習プラザで開かれた山口教区主催の「日臨節80周年記念大会」の講演で次のように述べています。

方相逸大陸会長は講演で、自身の韓日祝福結婚の体験を交えながら、力強く文総裁の業績を証ししました。方会長は最後に「山口の下関は聖地と同等の場所です」と祝祷をささげ、参加者にとって感慨深い日臨節80周年記念大会となりました。

光言社>統一運動情報 方大陸会長が文鮮明総裁を力強く証しする~日臨節80周年記念大会 2021.03.31

文鮮明氏は関釜連絡船で1941年4月1日に初来日しています。まだ博多航路はありませんので上陸は下関港です。この日は旧・統一教会(統一協会)の「日臨節(以前は「降日節」)」です。少しでも縁があれば「聖地」になってしまうのは自然なことで、別に教団特有の話ではありません。

この「日臨節80周年記念大会」の日、方会長一行が訪れたのは日和山公園です。日和山は石巻や酒田も有名です。海の様子を確認するのに適した山であることからその名がついているものと思われます。

下関の日和山公園には高杉晋作像がありますが、一行は崑崙丸(こんろん-まる)慰霊碑に献花しています。「崑崙」とは中国の山の名前です。姉妹船・天山丸の「天山」も同様です。半島航路ですが命名者の意識は大陸にあったのでしょう。

崑崙山

魚雷被弾の崑崙丸

崑崙丸は陸軍の部隊を乗せて1943年10月4日22時30分に下関港を出港する予定でした。軍用列車の到着が遅れ、旅客定員2050人に対して479人を乗せただけで23時に出港します。崑崙丸は4月に就航したばかりの最新の連絡船であり、当時としては日本最速の商用船でもありました。

崑崙丸の沈没海域
沈没海域(地理院タイルを加工)

日付が変わって午前1時20分頃、乗客・乗員655名を乗せた崑崙丸は沖ノ島付近を航行中にアメリカの潜水艦「ワフー」の魚雷を受けて沈没します。死者・行方不明者は583人(慰霊碑では582人)で、犠牲者には衆議院議員2人も含まれています。

まだ日本海の制海権は日本が握っていました。10月11日に宗谷海峡を航行中のワフーは日本軍の砲撃を受けて撃沈、2006年の調査で水深65メートルの海底に沈んでいることが確認されています。

方会長らが崑崙丸の慰霊碑を訪れたのは、教団的には日本留学を終えた文鮮明氏が沈没したこの船で帰国する予定だったことになっているからです。天の導きによって難を免れたというストーリーが語られています。

その時が十月四日だったと思いますが、その船に乗るはずだったのです。…ところが、駅に行って汽車に乗ろうとするのに、足が動かないのです。その船に乗ったならば逝くのでしょう。それで、天が先生に行かせないようにするのです。それがよく分かる人なのです。心が、あとに戻れというのです。それで、すぐには行くことができないという連絡をせずに、帰ってきて、友達と…私が登山に行ったために、数日が過ぎました。

光言社>日本統一運動史 11 帰国時の日本への祈りと決意 2020.12.11

文鮮明氏が「早稲田高等工学校」(授業時間が18:00-21:30の夜学、早大附属)を卒業したのは同年9月30日付です。3年の修業年限は半年短縮されていました。文鮮明氏は崑崙丸に乗船するための汽車に乗ることなく、登山に行ったと語っています。

10月上旬の富士登山

何百万部だかのベストセラー「平和を愛する世界人として」では富士山に登ったと記述されています。

一九四三年九月三十日に卒業して、故郷の家には「崑崙丸に乗って帰国する」と電報を打っておきました。ところが、帰国船に乗ろうとした日、足が地に付いて離れないという不思議な現象が起きました。出航する時間はどんどん迫ってくるのに、どうしても足を離すことができず、結局、崑崙丸に乗り損ねてしまいました。

「崑崙丸に乗るなという天のみ意のようだ」と思った私は、しばらく日本に留まることにして、友人たちと富士山に登りました。数日後、東京に戻ってきてみると、世の中は上を下への大騒ぎになっていました。私が乗ろうとした崑崙丸が撃沈されて、韓国に帰る乗船者のうち五百人以上が死んだという話でした。崑崙丸は、当時の日本が誇る大型高速船でしたが、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してしまったのです。

平和統一聯合>穏やかな心の海 2019.10.23

10月上旬の富士登山とは、にわかには信じられません。富士登山シーズンはおおむね7/1~9/10の70日間です。1943年10月4~10日の富士山頂と東京の気温は次のとおりです。

富士山
平均
富士山
最高
富士山
最低
東京 
平均
東京 
最高
東京 
最低
10月4日-2.2℃0.9℃-6.1℃23.1℃27.3℃21.0℃
10月5日1.4℃5.6℃-1.6℃19.2℃24.0℃15.4℃
10月6日-0.6℃0.6℃-3.0℃17.3℃19.5℃15.7℃
10月7日0.9℃5.0℃-1.3℃16.8℃20.2℃13.9℃
10月8日2.1℃4.4℃-0.9℃16.2℃20.4℃12.6℃
10月9日2.5℃5.1℃-0.2℃17.0℃18.1℃15.6℃
10月10日3.4℃5.4℃-0.8℃17.7℃18.8℃16.7℃
気象庁>東京 1943年10月(日ごとの値)主な要素 など

10月上旬なら冬山登山の装備が必要です。崑崙丸のわずかな生還者が救出されたのは夜が明けてからでした。玄界灘の水温はそこまで冷たくなかったわけです。体力を温存して浮いていれば救助の可能性がありました。

一方、富士スバルラインの開通は1964年東京五輪の年です。文鮮明氏がどのルートで登ったのかわかりませんが、五合目まで車で行けたはずはありません。本当に足が動かないという不思議な現象が起きたのなら、行くべきは病院であって氷点下の富士山頂ではなかろうと思われます。

ただ、別に禁止されているわけではありませんので、登ろうと思えば登れないことはありません。経験者と一緒なら初心者でもまだ登れる時期ではあります。富士山測候所では少なくとも4名が殉職していますけど…。

19444月、交代登山中の4合目付近で吹雪
194612月、迎えに行った9合目付近で滑落
19582月、7合目付近で突風
19804月、火口に滑落
▲富士山測候所職員の殉職

数日前には足が動かなくなったはずの文鮮明氏は本当に氷点下の富士山頂に登ったのでしょうか。「列車の下に張りついて」よりは現実味があります。再読してみると、山頂まで登ったとは語っていません。3合目だろうと4合目だろうと富士山は富士山です。そういうオチ?

ちなみに、当時の汽車では東京から下関まで20時間ほどかかるはずです。午後10時半に下関を出港予定の連絡船に乗船するには前の晩に東京を出る必要があります。

虚言癖?の教祖(2023/11/26追記)

私は文鮮明氏が10月に富士山に登ったという話を疑問視していたわけですが、なんとご本人は次のように語っていたようです。

「頭振って良い所へ見物に行ったり、今日みたいに見物に行ったりしなかったよ。だから富士山にも行かないし、熱海にも行かないし、箱根へも行かない。日光へも行かなかった。神が願う見たい所の基準を神が見て喜んでから、『ああ、君行ってみな、良いから』。それから行く、それが先生の主義だよ。」(1965.10.8)

光言社>日本統一運動史 5 日本留学時代④ 2020.10.30

きっと馳知事のように事実誤認なのでしょう。そうに違いありません。まさか…、…ねえ。

天の導きで難を逃れたことにしたいときは富士山に登ったことにして、観光に興味がないと言いたいときは富士山には行っていないと言う、そういうタイプなのかもしれません。実話でないストーリーはもっとあるかもしれません。

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