中外商業
第66代総理大臣・三木武夫の在任期間は1974年12月から1976年12月までの約2年間です。徳島出身で明治大学雄弁部出身というのは知っていましたが、まさか大阪(尼崎)の商業校を卒業したとは知りませんでした。
三木武夫は1920年4月に徳島県立徳島商業学校に入学します。1年留年して在籍6年目となる1925年7月に野球部支援バザーの会計をめぐって校長の退任を迫り、結果的には自らが退学する憂き目に遭っています。
徳島商野球部は1915年第1回大会から1924年第10回大会まで四国の予選に連続出場していますが、1925年と1926年は不参加です。三木武夫が退学に追い込まれた事件が関連している可能性が高いものと思われます。
三木が中外商業学校に転籍したのは1925年9月ですが、当時の中外商はまだ設立されたばかりで今の大阪市北区中之島5丁目に仮の校舎があったようです。同年12月に塚口に移転し、三木は翌年3月に無事卒業します。
1922年 | 大正11年 | 大阪市北区玉江町に「中外商業学校」設立 |
1922年 | 大正11年 | 尼崎市中在家に「琴浦女学校」設立 |
1925年 | 大正14年 | 中外商が尼崎市塚口町5丁目に移転 |
1951年 | 昭和26年 | 両校が統合され「尼崎市立北高等学校」 |
1951年 | 昭和26年 | 10月に県立移管され「兵庫県立尼崎北高等学校」 |
徒歩通学?
尼崎市の中外商高と琴浦女子高はともに私立校ですが、1951年4月に尼崎市立北高等学校として統合され、半年後には県立移管されています。Wikipediaの同校のページには「主な卒業生」の筆頭に三木武夫の名前があります。
三木本人も徳島に居たたまれなくなり、叔父らを頼って大阪の布施市(現・東大阪市)へ向かい、1925年(大正14年)9月、私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入することになった。<略>当初大阪市北区玉江町にあった仮校舎まで歩いて通学していたが、同年12月には尼崎市塚口に新校舎が完成したのを機に、塚口まで通学するようになった。
Wikipedia>三木武夫
微妙な記述です。布施から塚口まで歩いていたと記されているわけではありません。Google Mapで布施駅-中之島5丁目間をルート検索すると徒歩で2時間弱、布施駅-尼崎北高間は4時間以上です。
紫のマーカーが布施駅、青は中之島5丁目、赤が塚口5丁目です。さすがに4時間以上かけて布施から塚口まで歩いたということはないはずです。塚口に通ったのはせいぜい2~3か月の短期間ですが、始業が8時なら3時過ぎには布施を出なければなりません。
阪急線塚口駅の開業は1920年です。今のJR線塚口駅は19世紀中の開業です。短期間だからこそ、電車で通ったものと思われます。
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