逆転した上下関係、畿内から遠い上対馬と近い下対馬

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2019/10/06:初稿公開
2021/10/12:「上対馬のアメダス鰐浦、下対馬の旧測候所・厳原」に改題
2024/12/17:「北部・上対馬の鰐浦」の項目を加筆のうえ「アメダス鰐浦(わにうら)は標高63m、佐須奈から移転」のページに移動
2024/12/23:「南部・下対馬の厳原」の項目を加筆のうえ「アメダス厳原(いづはら)は1991年に約1キロ移転」のページに移動して、このページを改題

対馬の観測所は3か所

東シナ海を北上して朝鮮半島に抜けた2019年台風18号の影響で、10月2日の最大瞬間風速1位は対馬の鰐浦(わにうら)、翌10月3日の最大瞬間風速1位は厳原(いづはら)でした。対馬にはアメダスの観測地点が3か所あります。対馬の北端にあるのが鰐浦で、厳原は対馬の南部です。

対馬の観測所
対馬の観測所(地理院タイルを加工)

日本気象協会「tenki.jp」など複数のWebサイトではアメダス観測点の地図が掲載されていますが、おそらくは気象庁発表の緯度経度で座標入力しているものと思われます。実際の観測所とは100~200mほどの差異が生じます。厳原の場合は「北緯34度11.8分、東経129度17.5分」です。

地理院地図では「北緯○度○分○秒」の形式に置き換えなければ座標検索できませんので、「北緯34度11分48秒、東経129度17分30秒」に変換して検索してみました。すると…。

緯度経度検索すると海上
海上観測所?(地理院タイルを加工)

海上にマーカーが示されてしまいます。もちろん海上観測しているわけではありません。ズバリ示されないということは、探す楽しみが残っているということでもあります。

対馬やまねこ空港のアメダス美津島

空港の観測点はその所在地名の美津島(みつしま)で呼ばれています。「みつま」ではなく清音の「みつま」です。Google日本語入力でもMS-IMEでも「みつじま」では美津島に変換できません。

空港自体は1975年6月の開港です。山を削り谷や県道を埋めて建設されており、滑走路は1900mです。対馬空港は2008年2月に「対馬やまねこ空港」の愛称を付けています。ツシマヤマネコは1971年に天然記念物に指定されています(イリオモテヤマネコは特別天然記念物)。

アメダス美津島の2020年観測値は次のとおりです。鰐浦より降水量が多めです。2003年統計開始で35℃台は2回観測されているだけです。

年降水量2162.5ミリ426位/1293地点
年平均気温16.0℃261位/922地点
年最高気温32.8℃776位/922地点
年最低気温-3.0℃249位/922地点
年較差35.8℃841位/922地点
年平均風速3.5m/s135位/921地点
▲美津島の2020年観測値

標高63mで風速計の高さは10.1mとされています。2020年9月の台風10号では観測史上1位の最大瞬間風速44.2m/sを観測しました。正式名称としては「対馬航空気象観測所」です。気象庁職員が常駐しているのではなく、航空機安全運航支援センターへの委託ということです。

運河2本で分断されている対馬

対馬の6町は2004年に合併して1島1市の対馬市が成立しています。

合併前読み合併時人口
上県郡上対馬町かみつしま5,015
上県郡上県町かみあがた4,293
上県郡峰町みね2,776
下県郡豊玉町とよたま4,418
下県郡美津島町みつしま8,405
下県郡厳原町いづはら15,033

日本の島の面積ランキングは、本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬の順です。国土地理院は対馬の面積を695.74k㎡としていますが、対馬は厳密には陸続きではなく運河によって隔てられています。

対馬には東西の海を繋ぐ2本の運河があります。江戸時代に造られたのが大船越瀬戸(おおふなこし-せと)、1900年に海軍によって開削された万関瀬戸(まんぜき-せと)です。ともに国道382号線が通り、大船越橋と万関橋が架けられています。瀬戸の名が付いた2つの運河は空港の近くです。

2つの運河に架かる橋
2つの運河に架かる橋(地理院タイルを加工)

万関橋から見た万関瀬戸です。

万関瀬戸

上下関係の逆転現象

対馬は南北に細長い島ですので、上対馬と下対馬に2区分されることがあります。北部の上対馬と南部の下対馬は、もともとは上県郡と下県郡に由来する区分のようです。この区分は7世紀前半から続いているようです。

地名に「上」なり「下」なりが付されるときは、上目黒・中目黒・下目黒、上賀茂神社・下鴨神社のように川の上流と下流の関係にあるケースが多いはずです。対馬の最高峰は南部の厳原町にある標高648mの矢立山(厳原町)です。南北に長い対馬で南北に流れる川はありません。

何を基準にして対馬の「上下関係」が成立したのか気になります。地図上の上下はまったく関係ありません。北を上にして作図する習慣が7世紀や8世紀の日本にあったはずがありません。

博多または唐津に近いのは南の下対馬です。律令国名で「上・下」がつくのは、上野(こうずけ)・下野(しもつけ)と上総(かずさ)・下総(しもうさ)です。上野・下野は畿内に近い群馬が「上野」です。

上総と下総
上総・下総(地理院タイルを加工)

上総・下総は陸地では「下総」が畿内に近いものの、徳川家による利根川東遷事業以前の江戸は湿地帯で馬や人は足を取られてしまうことから、畿内から東北に向かう場合は三浦半島から内房に向かう海上ルートが一般的だったそうです。

東京湾横断の海路で考えるなら、畿内に近いのは「上総」のほうです。つまり、上総・下総の上下関係は原則どおりということになります。天草上島・天草下島上甑島・中甑島・下甑島、大崎上島・大崎下島の位置関係も畿内に近いほうが「上」です。上越・中越・下越も同様ですから、上対馬・下対馬はかなり特殊な事例です。

日本海直行ルートなら北部が近い?

ネット上で語られているのは、宗像大社の総社(浜津宮)から大島(中津宮)と沖ノ島(沖津宮)を経て対馬北部の比田勝(ひたかつ)港に至る航路が当時はあったのではないかという説です(赤マーカー)。あるいは、山陰沖の日本海ルートなら北東部が近いという話もあります。

玄界灘
玄界灘(地理院タイルを加工)

少なくとも江戸時代には唐津から壱岐を経て厳原に至る海路が一般的だったようです(青マ-カー)。兵庫や鳥取や島根から出港すれば北部のほうが若干近いとは言えそうですが、宗像や下関ならどちらが近いとも言いかねるところです。

ただ、対馬市役所があるのは厳原です。合併時の人口も圧倒的に厳原が多数です。金石城も厳原にあります。国府も厳原にあったようです。平地が少ない対馬で最北端に近い比田勝港に到着しても、そこを最終目的地とすることにあまり実益はなさそうです。

緑のマーカーは対馬国の一宮・海神神社(わたつみ-じんじゃ、かいじん-じんじゃ)です。対馬の古い主要施設としては珍しく西岸の峰町にあります。仏像の盗難で有名な神社ですが、この神社の参道に当たる部分には人家が1軒もありません(あったような形跡はあります)。

(1)対馬そのものを最終目的地とするなら、人口が多い南部の厳原航路が栄えるのは当然です。
(2)対馬を朝鮮半島に向かう途中の寄港地として考えるなら、北部の比田勝航路は成立します。
(3)対馬が中継地だとすれば、中部東岸に日本船が着き中部西岸に半島からの船が到着することもあり得そうです。

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