1946年第28回大会の巡ウラ優勝校
1946年の第28回大会は太平洋戦争後最初の大会です。
全国・F | 浪華商 | 2-0 | 京都二中 |
全国・S | 京都二中 | 5-3 | 松江中 |
全国・Q | 松江中 | 11-8 | 敦賀商 |
北陸・F | 敦賀商 | 8-5 | 富山商 |
北陸・S | 富山商 | 8-7 | 金沢二中 |
石川・F | 金沢三中 | 21-7 | 金沢二中 |
石川・S | 金沢二中 | 21-6 | 石川工 |
石川・Q | 石川工 | 16-9 | 金沢市商 |
1946年は北陸大会の金沢二中までウラ優勝校を辿ることができます。金沢二中は石川大会準優勝で北陸大会に進みました。このため、本来はウラ優勝校は不成立としたいところですが、不完全とはいえ辿れるところは辿っていこうという方針に転換しました。
で、金沢市商です。この学校がよくわからないわけです。
市立第二工業学校
現・金沢商の開校は1900年です。
- 1900年 金沢市立商業学校
- 1907年 石川県立金沢商業学校
- 1948年 石川県立金沢商業高等学校
- 1949年 石川県立金沢菫台高等学校
- 1958年 石川県立金沢商業高等学校
1907年に県立移管し、1923年第9回大会で甲子園初出場を果たしたときは「石川県立金沢商業学校」の名称です。その後の校名変更はありますが、県立であることに変わりはなく、1946年の「金沢市商」であるはずはありません。1946年の金沢商は1回戦で金沢中に負けています。
現・金沢市工は1944年に「金沢市立工業学校」から「金沢市立第一工業学校」に名称変更しています。学制改革の1948年、「金沢市立第一工業学校」は「金沢市立第二工業学校」を吸収する形で「金沢市立工業高等学校」になっています。
- 1893年 金沢市立工業学校
- 1944年 金沢市立第一工業学校
- 1948年 金沢市立工業高等学校
おそらく「市立第二工業」も1944年の戦時転換の産物です。この「市立第二工業」こそ1946年の巡ウラ優勝校「金沢市商」ではないか、と踏んで検索してみました。
所在地は不明のまま
金沢市図書館のWebサイトに「市史年表 金沢の百年 大正編」と題する壮大なページが見つかりました。関係しそうな項目だけピックアップします。
1933年2月28日 2年制の金沢市立商業高校の創立が市会で可決された。校舎に長田町小学校の一部をあて、募集人員は200人。
1937年4月1日 金沢市立商業学校は新学年から修業年限2年制を3年制に改めた。
1943年12月3日 明年4月実施する県下商業学校の戦時転換が県で決定した。県立金沢商業は存置、金沢市立商業は金沢市立第二工業学校として機械、金属工業の2科を設置、小松商業は農業学校に、七尾商業は七尾工業学校に転換する。また県立工業は図案科を廃止し科名を改称する。
1948年4月1日 新制高等学校が開校した。金沢市内の県、市立高校は6校。県立金沢一高(校舎は一中)、県立金沢二高(校舎は県一女と三中校舎の一部)、県立金沢三高(校舎は県二女)、県立工芸高校(校舎は県工)、県立金沢商業高校(校舎は金商)、市立金沢工業高校(校舎は市一工)。
金沢市図書館>市史年表 金沢の百年 大正編
やはり1933年創立の金沢市商は1944年の戦時転換で市二工になっています。1946年当時は「金沢市立第二工業学校」から「金沢市立商業学校」に名称を戻していたものと思われます。
その後、1948年の学制改革に伴う再編で市二工は閉校になったようです。金沢市工Webサイトの「沿革」のページには、「金沢市立第二工業学校廃止に伴い同校生徒を編入」との記述があります。
なお、この年表では創立時の名称が「~高校」になっていますが、単なる誤記であろうと思われます。
また、1946年時点の金沢市商の所在地は判然としません。ウラ優勝校MAPでは暫定措置として、現・長田町小学校にマーカーを置きました。永遠の暫定になりそうですが…。

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